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「思い出す。機内で出会ったソニーの『企業戦士』たち」奈良順子旧ブログ記事(2012/10/01)再掲載

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最近、ふっと思い出すんです。 機内で出会った企業戦士たちのこと。

私自身初めてフライト職に就いて間もなくの頃でした。米国は上の写真に見られるような雰囲気の時代でした。

米国が最強の時代で、飛行機の中も欧米の乗客ばかりだったのです。アジアの乗客は皆無に近い状態でした。

日本は高度成長期とはいえ、海外では日本人を見かけることもなく、たまに出会うといえば、外資系航空会社でフライト職に就いている日本人スチュワーデス数人くらいだったでしょうか。それも稀なことでした。

機種はB707で、ファーストクラスは16席ほどで、エコノミークラスは100席程度でした。

ファーストクラスの方がいつも満席で、エコノミークラスはガラガラで、という感じでした。乗客のほとんどが欧米の政府関係者や世界的企業の会長・社長などだったからです。それにハリウッドスターたちも常連でした。

そんな華やかなファーストクラスの仕切りカーテンから後方のエコノミークラスをのぞいてみると、金髪や栗毛色の一般ビジネスマンの乗客がチラホラ。その中に、本当にたまになのですが、ぽつりと黒髪の人が座っていることがありました。

「もしかして!」

急いで行ってみると、やはり日本人でした。

嬉しくなって、「日本の方ですか?」と伺うと、「はい、そうです。貴方も日本の方ですか?」と目を輝かせて必ず聞き返してくれるのです。「はい!」 もう懐かしくて、嬉しくて、両手で固い握手を交わしたものです。

それから、ささやかな「物々交換」の始まりです。

「梅干しを少々持っているのですが、召し上がります?」と、伺うと、「嬉しいですね。それは有難い」と言ってくれます。

そして、「実は、少々、煎餅を持っているのですが、召し上がりますか?」と、反対に聞いてくれるのです。「嬉しいです!」なんて言いながら、「お煎餅」と聞くと、のどがゴクリ。

「お仕事ですか?」と伺うと、「そうなんです。ホノルルからアメリカ本土に行くところなんです」と答えてくれます。

1ドルが360円。日本がどこにあるのかも知られていない、そんな外国でのことです。

日本は国民が汗を流し、必死になって働いて、やっと少し軌道に乗ってきた頃のことでした。誰もが夢をもち元気いっぱいの日本でした。

一人でポツリと機内に座っている日本企業の社員。しかし、希望に燃た力強い目。その目は、会社を愛し、日本の将来を信じ、何も恐れず毅然としているように見えました。まさに「企業戦士」そのものでした。当時19歳だった私には、そんな日本の企業戦士たちが何よりも心強く思えたものです。

彼らは「ソニー」の社員でした。

欧米のビジネスマンたちにとって、よきライバルであり、恐れられた存在であったことでしょう。

「日本がどこにあるのか知らないけど、ソニーと、富士フィルムは知っているよ。」

そんなことを言う人たちも大勢いました。ソニーのトランジスタ・ラジオの性能の良さ、富士フィルムのカラ―の美しさは、世界の人たちを魅了し、まさに「憧」れだったのです。

「ソニーのトランジスタが欲しい」、「富士のカラーが欲しい」と、誰もが口にするほどでした。

アメリカの友人たちによく頼まれました。

「日本にフライトで行ったら、フジのカラ―フィルム、10本買ってきて!」なんて。

その時代から頑張っている日本企業は多数あったと思います。その中でも、高度成長期を支え、海外に日本の製品の強さを示すことができたのは、やはりソニーと富士フィルムが、当時の代表格だったのかもしれません。

日本の繊細な技術、その質の高さ、その凄さを初めて世界に示し、人々のハートを掴んだのです。このことは、私自身が世界を回り実感したことでもあるのです。

それから、次々に、日本製品が世界にデビューしていきました。そうして日本ブランドが確立され、いくつかの国民的企業が誕生したのだと、当時を振り返ることができます。

しかし、時が流れ、時代は変わり、今、国民的企業と言われた社員たちも多数リストラという状況にあります。

子会社・中小企業の多くが倒産しました。すでに、日本企業ではなくなってしまった会社もあるでしょう。かつての日本の鋭い輝きを、海外でもなかなか見つけることができません。

自分の会社を信じ、日本の未来を信じ、何も恐れず一人世界に乗りこみ、勝ち続けた当時の社員の方々は本当に優秀な人たちだったのだと思います。まさに日本最強の企業戦士だったと言えるでしょう。

気骨を感じさせるその鋭い眼には、今日の日本がどのように映るのだろうか。

機内で出会ったソニーの企業戦士たちの姿を思い出す度に、私は、ふと、そんなことを思うのです。

(本記事は2012年10月1日、旧ブログに掲載したものです。)

①「ソニーはこのまま没落してしまうのか?」

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「世界最小のラジオ『TR-63』」1957年
画像:ソニー/(戦後イノベーション100選)


低迷が続いているソニーは、このまま没落してしまうのか?

そうであるのなら、日本国民の多くが失望することになるだろう。

6月17日、ソニーは、2015年3月期の連結業績見通しを下方修正することを発表した。中国勢が躍進する中、不振が続くスマートフォン事業の減損処理で、最終赤字は2300億円に拡大。1958年の上場以来初の無配となる。さらに1000人規模を削減する方針も明らかにした。

この他にも、パソコン事業からの撤退、テレビ事業の分社化を図り、今年4月に、東京・品川・御殿山地区にある旧本社ビルを売却した。3ヶ月後となる今年7月には、東京・品川駅・港南口にある本社の土地(東京都港区港南)を連結子会社「ソニー生命保険」へ売却するとの発表があったばかりだ。

こうして低迷しているソニーに対し、「トランジスタ」という言葉に馴染みのある中高年層は、この上ない淋しさを感じているのではないだろうか。

敗戦後の日本を支えたものは多数あったにちがいない。その中でも「ソニー」は特別な存在だった。日本は弱体化していない。日本は優れていることを、この「トランジスタ」を作り、世界に知らしめた小さな会社、だが世界最強となる日本の企業がソニーだった。

敗戦で焼け野原となった翌年(1946)に、「東京通信工業株式会社」(ソニー)として設立された。

井深大、盛田昭夫らが東京都中央区日本橋の旧白木屋があった場所 の3階に、「東京通信工業株式会社」を設立。社長に前田多門、専務(技術担当)に井深、常務(営業担当)に盛田という体制をとった。初めは真空式電子電圧計などを製作していた。これがソニーの前身である。

「東京通信工業株式会社」設立趣意書には;

“真面目ナル技術者ノ技能ヲ最高度ニ発揮セシムベキ
自由豁達ニシテ愉快ナル理想工場ノ建設”


とある。

世界をうならせた「トランジスタ」の研究を開始したのは、終戦から8年経った1953年のことだった。

その2年後となる1955年に、「トランジスタラジオ」の製造販売を開始。会社のロゴを「SONY」とした。「ソニー株式会社」に社名を改めたのは1958年のことだった。同年、東京証券取引所に上場。(「ウキペディア」2014/09/18)


これが、設立当時の「SONY」である。、「トランジスタ」、その名は世界中に知れ渡り、人々に渇望され、愛され続けた。このソニーこそが、焼野原から立ち上がった「日本の魂」そのものだったのではないだろうか。

⓶「ソニーはこのまま没落してしまうのか?」

写真:ソニー
写真:ソニー(日本初のトランジスタラジオ「TR-55」1954)


「ソニーはこのまま没落してしまうのか?」②

焼け野原に設立された東京通信工業株式会社(ソニー)の驚異的な成長は飛ぶ鳥を落とす勢いであった。

この点に関し、会社沿革(「ソニーHP」)を見て驚かされたことが二点ある。

ひとつは、「日本初」「世界初」「最小」という製品が非常に多いということだ。二つめは、戦後15年ほどの時点で戦勝国を中心に、積極的な進出を果たしたことである。

こうしたことからも、ソニーは開拓精神に富んだ、良い意味でのプライドをもった企業(だった)といえるのではないのか。同時に、高度成長期の先導的な役割を果たし、貧しかった国民に夢と豊かさを与えた企業といえるだろう。

まず、「日本初」「世界発」「最小」ということでは、1950年3月の日本初のマグネタイトを塗布した紙ベースの録音テープ「ソニ・テープ」を皮切りに、1950年5月、日本初のテープレコーダー「G型」受注販売開始。1954年5月、日本初となるPNPアロイ型トランジスタおよびゲルマニウムダイオードを発表した。

日本初のトランジスタラジオ「TR-55」(上写真)が発売されたのは、1954年9月のことだった。

その後も「○○初」の快進撃は続く。

1960年5月には、世界初の直視型トランジスタテレビ「TV8-301」、1961年3月、日本初オールトランジスタアンプ内蔵テープレコーダー「TC-777」、1962年5月、世界最小・最軽量のオールトランジスタテレビ「TV5-303」、1963年7月、世界初のトランジスタ小型VTR「PV-100」の発表。1965年8月、世界初の家庭用VTR“ビデオコーダー”「CV-2000」、同年10月、日本初オールシリコントランジスタステレオアンプ「TA-1120」、同年11月、ソニー初のカセットテープレコーダー“マガジンマチック100”「TC-100」の発売。

このように、息つく暇もなく立て続けに、「世界発」「日本初」「世界最小・最軽量」の製品を開発・発売を成し遂げたことになる。

次に、ソニーの二つめの特徴となる、驚くべき海外進出であるが、米国にソニー・コーポレーション・オブ・アメリカを設立したのは、戦後15年ほどしか経たない1960年2月のことだった。

同年12月にはスイスに、その翌年となる1961年は香港、1967年5月には英国、70年代に入り、ドイツ、スペイン、フランスと、それぞれの国にソニーを設立した。また、日本企業で初となるエミー賞を受賞したのもこの年であった。

こうしてソニーは、50年代から70年代へと、高度成長期の先導役となり、自らも絶頂期を迎えることになる。

敗戦国の一企業が、資本金19万円でスタートしたソニーが、戦後15年目にして戦勝国の地に乗り込み、会社を設立するなど誰が想像できただろうか。一般サラリーマンの給料が1万数千円の時代であった。

そこまでソニーを躍動させた源泉とは何だったのだろうか。

③「ソニーはこのまま没落してしまうのか?」

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写真;左から盛田(当時常務26歳)と井深(当時専務39歳)/ソニーHP


敗戦直後の小さな町工場、東京通信工業株式会社。世界のソニーとなった源泉とは何だったのか。

諸々の好条件が重なったと思うが、その究極は「人」だったのではないかと思う。

ここでの「人」とは、深い想いをもつ人のことである。まさに、創業者のひとり「井深 大」の存在そのものといえるだろう。


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写真;「設立趣意書」井深大

創業時に、井深 大が起草した「設立趣意書」がある。その内容は、焼け野原となった日本の復興への想い、人々への想い、従業員への想い、下請け工場への想い、人々に喜んでもらえるもの作りへの想いで溢れている。

「設立趣意書」井深大 1946年1月

会社設立の目的(「ソニーHP・歴史」)
一、真面目なる技術者の技能を、最高度に発揮せしむべき自由闊達にして愉快なる理想工場の建設
一、日本再建、文化向上に対する技術面、生産面よりの活発なる活動
一、戦時中、各方面に非常に進歩したる技術の国民生活内への即事応用
一、諸大学、研究所等の研究成果のうち、最も国民生活に応用価値を有する優秀なるもの迅速なる製品、商品化
一、無線通信機類の日常生活への浸透化、並びに家庭電化の促進
一、戦災通信網の復旧作業に対する積極的参加、並びに必要なる技術の提供
一、新時代にふさわしき優秀ラヂオセットの製作・普及、並びにラヂオサービスの徹底化
一、国民科学知識の実際的啓蒙活動

経営方針(「ソニーHP・歴史」)
一、不当なる儲け主義を廃し、あくまで内容の充実、実質的な活動に重点を置き、いたずらに規模の大を追わず
一、経営規模としては、むしろ小なるを望み、大経営企業の大経営なるがために進み得ざる分野に、技術の進路と経営活動を期する
一、極力製品の選択に努め、技術上の困難はむしろこれを歓迎、量の多少に関せず最も社会的に利用度の高い高級技術製品を対象とす。
また、単に電気、機械等の形式的分類は避け、その両者を統合せるがごとき、他社の追随を絶対許さざる境地に独自なる製品化を行う
一、技術界・業界に多くの知己(ちき)関係と、絶大なる信用を有するわが社の特長を最高度に活用。以(もっ)て大資本に充分匹敵するに足る生産活動、販路の開拓、資材の獲得等を相互扶助的に行う
一、従来の下請工場を独立自主的経営の方向へ指導・育成し、相互扶助の陣営の拡大強化を図る
一、従業員は厳選されたる、かなり小員数をもって構成し、形式的職階制を避け、一切の秩序を実力 本位、人格主義の上に置き個人の技能を最大限に発揮せしむ
一、会社の余剰利益は、適切なる方法をもって全従業員に配分、また生活安定の道も実質的面より充分考慮・援助し、会社の仕事すなわち自己の仕事の観念を徹底せしむ。

なんとすごい「設立趣意書」だろうか。

上の一字一句に刻まれた井深の想いは十分に伝わり、タイムスリップしたような感覚に襲われる。心がワクワクするような躍動感が生まれる。庶民的であり、気品があり、なんて素晴らしい理念なのかと思う。その理念を、井深を中心に具現化したのが、当時の仲間、従業員、下請けの人たちだったのではないのか。

こうした創業者と従業員の熱い想いこそが、「トランジスタ」をはじめ、数々のヒット商品を生み出した。人々に愛され続け、世界のソニーとなっていった所以ではないだろうか。

しかしながら、経営するにあたり、何事も一人では成さなれないものだ。

「井深が見つけ、岩間が作り、盛田が売った」と言われるソニーであるが、草創期の三者の存在が確固たる礎であったことは間違いないだろう。

岩間和夫は、1946年 東京通信工業に入社。トランジスタに着目し、日本における半導体産業の基盤を創った人物ともいわれた。1954年に当時東通工の取締役であった岩間は米国のウエスタン・エレクトリック(WE)へ赴いた。工場を見学し、そこで得たトランジスタに関する製造技術をまとめた「岩間レポート」を作成。それを東京の東通工へ日々送り続けた。このレポートを参考として、東通工で世界初となるトランジスタラジオの試作品が実現された。(「岩間ウキペディア」2014/09/25)

盛田昭夫の存在も大きい。井深と共に「東京通信工業株式会社」を立ち上げた盛田は、井深の技術的発想を実現すると共に、トランジスタラジオ、ウォークマン等を世界に売り込んだ人物である。当時のソニーは常に資金難であったが、盛田の最大の能力は、資金調達であったといわれる。(「盛田ウキペディア」2014/09/25)

こうしたことからも、「井深が見つけ、岩間が作り、盛田が売った」とはうなずける話である。もう一つの好条件とは、三者共に親戚関係、友人、知人などを含め人脈が広かった点ではないかと思う。


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写真;創業当時の社内風景


8ido18000006lgj0創設当時の役員 資金繰りの苦労が絶えなかった。
写真;「創設当時の役員」資金繰りの苦労が絶えなかった/ソニーHP


顔の広さといえば、下記に見られるように、草創期の取締役、株主、相談役は錚々たる顔ぶれであった。

井深大、盛田昭夫の他に、前田多門(元文部大臣)、太刀川正三郎、樋口晃、田島道治(元宮内庁長官)、万代順四郎(元帝国銀行会長)、石橋湛山(元首相)、石坂泰三(元経団連会長)などが名を連ねている。(「DREAMGATE」)

ソニーの第一代社長は前田多門(元文部大臣)であるが、敗戦の2か月後に日本橋の旧白木屋店内に個人企業「東京通信研究所」を立ち上げる。翌年、井深、盛田らが合流し、「東京通信工業株式会社」を設立したという経緯がある。(「前田多門ウキペディア」2014/09/25)

敗戦直後であり、厳しい状況でありながらも、井深、岩間、盛田という最強の三本柱を中心に、自由闊達でありながらも妥協を許さない技術者たち、それに、初代社長の前田、株主、相談役などの顔ぶれからも、資金不足といえども、ソニーの成長はなるべくして成されたという見方もあるだろう。

しかし、井深の人々への想い、焼け野原からの復活、質の高い製品への想い、すなわち「人」としての熱い想いが原点となり、世界のソニーとなったことは事実だ。


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写真;忙しさの中にも生き抜きが必要 社員旅行(前列右端が盛田、左隣が井深)/ソニー


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写真;従業員にランドセルを手渡す井深


紆余曲折がありながらも、好スタートを切り世界にまで上り詰めたソニーであったが、今日の凋落の要因とは何か。ソニーはこのまま没落してしまうのか。

➃「ソニーはこのまま没落してしまうのか?」(最終章)

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写真;奈良(フィリピン・セブ島)


ソニー没落の要因とは何か?このまま没落してしまうのか?

まず、没落の要因であるが、ここでは、あくまでも一消費者としての視点を実直に述べたい。

端的に言うと、ソニー自体が「設立理念」となる、原点をおろそかにしたツケがまわってきたということではないだろうか。

ソニーの原点とは、もの作りに拘ることと、従業員・下請け、顧客を大切にすることではなかったのか。

今日のソニーは、顧客を満足させることよりも売り上げを考える、従業員を切り捨ててまで売り上げを伸ばすことが先行し、その結果、かつてのように人々に心から愛される製品を生み出すことが出来なくなってきたからではないのか。

時代の流れと共に、競争は激化し、製品のニーズも変化するのは当然であると思うが、モノ作りに対する情熱と従業員、顧客を大切にするという根本はいつの時代も変わってはならないことだ。

製品に関し、ソニーが特に顧客離れを招いたのは、コンピューターを中心に、「デジタル・ドリーム・キッズ」を掲げた1995年以降のことだろう。

この時期、6代目社長の出井伸之は就任3年後に過去最高の業績をあげたが、その後、出井が意図する戦略は空回りを始める。03年、04年と大幅減益となり、東証でソニーの株価が大暴落したという時期だった。(井出ウキペディア2014/09/28)

これは個人的なことになるが、丁度この時期に、私自身「VAIO」を購入したのだが、いまいちだった。当時は、ソニーの製品は良いに決まっているという信頼感があったので、次こそは、次こそはと、3台買い続けた。しかし、やはりいまいちということで、その後、ソニーの製品を買わなくなってしまった。

これはあくまでも製品と個人の相性であったのかもしれない。しかし、結果的に、ソニーはコンピューター部門から撤退する結果を招くことになり、私と同じように感じた人もいたのではないのだろうか。

コンピューターに限らず、製品にはそれぞれ良さも足りない部分もあると思う。改良すればよいことだ。

しかし、ソニーは、絶対してはならないことをしてしまった。このことが完全に顧客・国民離れの決定打になったのではないのか。

それは、赤字決算が続いているというのに、役員報酬が億を超えていたことだ。2010年6月には、赤字でありながら、日本人の役員報酬額が約2億1500万円であることが公開され、話題になった。

また、翌年となる2011年の3月期連結決算の最終損益は2595億円の赤字であった。これほどの赤字を出していながら、しかも前期も408億円の赤字でありながら、第9代となる当時の会長兼社長ハワード・ストリンガー(イギリス)の報酬は、総額約8億6300万円にものぼった。前年となる10年3月期の約8億1650万円よりも5000万円近くもアップしたことになる。

2008年末から今日まで、従業員を大量解雇しておきながら、約9億円の報酬はないだろ。国民はそう思っただろう。

大量解雇といえば、今年7月にも発表があったばかりだが、2014年度末までに国内人員1500名を削減する。他にも海外人員3500名が削減されるとのことだ。退職日は11月30日ということで、今から2ヶ月後には、これだけの人たちが職を失うことになる。

早期退職の対象者は、40歳以上の一般職および45歳以上の管理職社員で、退職者には割増退職金を別途支給するほか、希望者には再就職支援を実施する方針とのことである。しかし、『追い出し部屋』について騒がれたのはつい昨年のことであり記憶に新しい。

社会問題にまでなっている「追い出し部屋」の実態が明るみになるにつれ、国民・消費者のソニーに対する思いは完全に終わった。もはや、国民に愛されたかつてのソニーではない、と感じた人は多いにちがいない。

ソニーは「トランジスタ」で今日の中高年に、ウォークマンで30代、40代の人たちに、ゲームは若者や子どもたちに愛されてきた。私たち国民に夢と楽しさを与えてくれたのが国民的企業の「ソニー」だった。

いかなる優れた技術者がいても、毎回ヒットする製品を産むとは限らない。また良い製品を作り挽回するチャンスもある。しかし、決してソニーがしてはならないことは、首脳陣が利益を独り占めし、従業員や下請けをボロ雑巾のように捨てることではないのか。しかも、「追い出し部屋」などは論外だ。

このように、ソニーの没落の要因は、優れた製品を作ることが出来なくなったばかりか、心情的に国民に愛されなくなったことではないのか。専門的にはあれこれ要因はあると思うが、その根本とは、「愛さなければ、愛されない」という、とてもシンプルなことだと思う。

最後となるが、「ソニーはこのまま没落してしまうのか?」ということになる。

この答えを出すのは、ソニー自身だろう。第三者があれこれ内部のことを想像しても単に憶測にすぎない。

ただ、これは一消費者の願望ではあるが、ソニーが、戦後の「設立の原点」に戻れば、復活は不可能ではないと期待している。言い換えると、ソニーにはそれだけ素晴らしい過去からの財産がある。これは、ソニーを愛した人たちはこころのどこかで、同じような願望を持っているのではないだろうか。

ソニーは戦後の星であったのだから、どれだけ多くの人たちが悲しんでいるのか、今日の経営陣は分かっているのだろうか。

競合はこれからも増えていくだろう。しかし、ソニーの復活とは、売上が他社に比べてどうのこうのと言う問題ではないように思う。全てを日本に戻すくらいの気持ちで、原点に戻り、ソニーらしいモノ作りを取り戻し、従業員や国民に心から愛されるソニーに今一度戻ることではないのか。


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下記は、「ソニーはこのまま没落してしまうのか?」③と一部重複するが、今一度、業種を問わず、私たち全員が心に銘記したいものだ。

「東京通信工業株式会社設立趣意書」(創業者;井深大)から抜粋

一、真面目なる技術者の技能を、最高度に発揮せしむべき自由闊達にして愉快なる理想工場の建設

一、不当なる儲け主義を廃し、あくまで内容の充実、実質的な活動に重点を置き、いたずらに規模の大を追わず

一、極力製品の選択に努め、技術上の困難はむしろこれを歓迎、量の多少に関せず最も社会的に利用度の高い高級技術製品を対象とす

一、従来の下請工場を独立自主的経営の方向へ指導・育成し、相互扶助の陣営の拡大強化を図る

一、会社の余剰利益は、適切なる方法をもって全従業員に配分また生活安定の道も実質的面より充分考慮・援助し、会社の仕事すなわち自己の仕事の観念を徹底せしむ



上記の「設立趣意書」作成にあたり、井深大はこう記している。

「各人は、その規模がいかに小さくとも、その人的結合の緊密さと確固たる技術をもって行えば、いかなる荒波をも押し切れる自信と大きな希望を持って出発した。」


井深の死去直前に、「今、なにがやりたいですか?」という、当時の側近の問いに、こう答えたという。

「小さな会社を作って、またいろいろチャレンジしたいね」。


(井深大 1908年4月11日 - 1997年12月19日)